日本百景の一つ、千本松原のほど近くに瀟酒な邸宅が並ぶ別荘地がある。その一角にひっそりと佇む茶亭とそれに付随する庭園、そしてモダン建築の別邸で構成されるのが「沼津倶楽部」だ。茶亭を起点に、四季の彩りを添える隠れ家ホテルは“侘び寂び”の心をいまに伝える。
Photography_Kunihisa Kobayashi Words_Tetsuya Sato
水盤を望むモダンな別邸で
“何もしない”贅沢な滞在を
「沼津倶楽部」の歴史を紐解くと、ある一人の茶人に辿り着く。1913年(大正2年)ミツワ石鹸二代目・三輪善兵衛氏が、「千人茶会を催したい」と、数寄屋造りの「松岩亭」を建てたのがその始まり。時を経て、日本初のオーベルジュ「二期倶楽部」を手掛けた建築家・渡辺明氏の建築・建設で2008年に宿泊棟を増築。その後、国の有形文化財に登録された茶亭と、この地で育まれた文化を後世に継承したいとの想いから、2023年にリニューアルを果たした。渡辺明氏の遺作となった宿泊棟は全8室。西陣織の要素を取り入れた「沼津スイート」を始め、和室やメゾネットタイプなど5種類の客室を用意。「渡辺さんは、古い茶室と宿泊棟をいかに融合させるかを意識されたそうです」とPRを務める山口さんが説明するように、土間の設置や鴨居のディテールなど、茶室を起点とする数寄屋造りの意匠が随所に見て取れる。圧巻なのが、ロビーの眼前に広がる水盤だ。まるで鏡のように景色を映す水面が陽の移り変わりによって刻々と変化する表情は、ビジュアルアートを思わせる。また、夏には涼やかな空気を運び、冬には陽の光を反射させて暖かさを循環させる機能性も併せもつ。
館内には日本三大渓流のひとつ、柿田川湧水を引き込んだ露天風呂やサウナ、天然のバドガシュタイン鉱石による岩盤浴、さらにオイルマッサージを体験できるトリートメントルームを完備。かつて、療養地としても発展してきた沼津の歴史を現代的に更新する。
110余年に渡って紡がれてきた壮大な物語の序章となった「茶亭」は、今なお「沼津倶楽部」の根幹を成す。建設当時、すべての部屋を茶室として使えるよう設計された日本家屋は、設えや装飾が部屋ごとに異なるこだわりよう。窓に用いた手拭きガラスや杉板と竹を精緻に編み込んだ「網代天井」など、現代では再現不可能な意匠も多い。かつて千人茶会を夢想した空間は、リニューアルを機にメインダイニングへと刷新。鎌倉にある四川料理の名店「イチリンハナレ」の齋藤宏文氏が監修するモダンチャイニーズを楽しめる。
2024年にはミシュランガイドのホテルセレクション「ミシュランキー」にも選出された。「ここが目的地になるのが理想です。かすかに聞こえる波音や木々のさざめきに耳を澄ませて、何もしないという贅沢を感じてほしいですね」(山口さん)。時間と空間に身を委ねることで享受できる感動はそうそうないだろう。
見どころ
数寄屋建築の伝統とコンテンポラリーの邂逅
宿泊棟である別邸は、伝統的な数寄屋建築を踏襲しながら、マテリアルに現代的な感性が息衝く。その象徴が外壁に用いられた「版築壁」だ。富士川の砂と土を積層したもので、陽の当たり方によって表情を変えながら、モダン建築との優美な調和を描く。また、屋根に用いられた吉野杉はあえて加工せず、びっしりと並べて上から押さえつけるだけで成形。経年変化による色調の変化や優れた調湿作用など、無垢材ならではの特性を機能美へと昇華している。時間を重ねることで生まれる表情や木々と空の色を取り込んで様変わりする水盤など、自然環境に置かれて完成する余白を残した建築は、いつ訪れても新たな発見と気づきを与えてくれるだろう。
見どころ
地産食材×モダンチャイニーズの新提案
「茶亭」でいただけるのは静岡・御殿場出身の齋藤宏文シェフがプロデュースするモダンチャイニーズ。相模湾や伊豆近海で採れる新鮮な海産物をはじめ、三島野菜や天城軍鶏などを使った独創的な料理の数々は、舌の肥えたゲストをも唸らせる。実際に現場で腕を振るう瀬戸シェフは「中華はどうしても要素を重ねたくなるのですが、素材本来の味を最大限に生かした“ 引き算の美学”が特徴です。将来的には、齋藤シェフの料理をベースに自分が学んだ広東のエッセンスを採り入れたメニューにも挑戦したいですね」と語ってくれた。110 余年前に建てられた有形文化財で新感覚中華を堪能する食体験はここにしかない。宿泊客以外も利用可能(要予約)。
静岡県沼津市千本郷林1907-8
☎ 055-954-6611
P 14台 EV充電器 なし